Q&Aコーナー
Ⅴ、『罪について』
Q3.「教会では、すべての人を罪人と言いますが、それはどういうわけですか?」
A3.「罪人」という言葉は、すぐに「犯罪人」を連想させるために、いやな響きを持っています。しかし、聖書で言う「罪人」とは、「犯罪人」という意味ではありません。
「すべての人が罪人だ」という意味は、「すべての人が、神様の標準にかなわなくなってしまっている」ということです。神様が最初に造られたままの人間の姿から、堕落してしまって、自分の力では善を行うことができなくなってしまったのです(ローマ人への手紙3章10-12、23節)。もっとわかりやすく言えば、利己的な者になってしまい、自分のことしか考えない者になってしまったのです。ここに人間の不幸があり、悲惨があります。神様の標準である律法を、完全に守ることができなくなった人間は、いつも神様の怒りとのろいの下にあります(エペソ人への手紙2章1-3節)。
いつでも大きな壁にぶつかって、本当の自由も平安も喜びも満足もなくなってしまっている現実は、このことを証ししてはいないでしょうか。これは単なる弱さではありません。また、不完全さというものとも違います。人間による教育や訓練によって、また、人間の力による努力や善行によって良くなれるというような状態にはないのです。罪が取り去られ、赦され、その力から解放されなければ、本当の自由、平安、喜び、満足を得ることができない状態なのです。
ですから、これを「罪人」と呼ぶのは、最も適している呼び方ではないでしょうか。すなわち、罪から救われなければならない「罪人」、罪が赦されなければならない「罪人」なのです。
*ローマ人への手紙3章10-12節「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」
*ローマ人への手紙3章23節「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」
*エペソ人への手紙2章1-3節「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」